基本的に物置き

◆ふくふくアフターライフになるまで

◆ご注意

このページはゴースト『ふくふくアフターライフ(仮)』の制作中に決めていた背景を読み物に仕立てたものです。
あくまで初期設定なので、現行の福子にどれだけ影響していたり、過去になっているかは秘密です。

◆本編

遠くからの蝉の声が、弔うように響いていた。
そこは西日の差し込む、とある女子大生の暮らしていたありふれたアパートの一室。
女子学生の一人住まいらしく、内装はシンプルで家具は少なく、調度品のたぐいも乏しい。
しかし手狭なキッチンには、様々な調理器具や食材が整頓されて並んでいる……

「なんでかねえ」

そんな部屋の中央で、男は呟き、軽く息を吐く。
この部屋に入ったその瞬間から、彼はずっと鼻呼吸を禁じている。臭いに悶絶することになるからだ。
窓を開けっぱなしにすることで徐々に臭いは薄まっているが、それでもまだキツいものがあった。
警察という職業柄、彼はこういう臭いに多少の耐性がある。しかし好き好んで嗅ぎたい臭いでもない。

「この部屋で、この趣味で。どうしてまた、餓死なんぞ……」

男は思考する。……正確な死因はもう少し複雑で、彼の思い描く『餓死』とは違うらしいが、彼にはさほど興味もない。
問題はこの部屋の持ち主の死に、犯罪の臭いがするかどうかだ。
しかし、彼が思いつく限りの可能性を当たっても、他者が関与した線は限りなく薄かった。
遺体の損壊、薬物、暴行といった事態の痕跡。大学内での不穏な交友関係や、近所とのトラブル。そのいずれもない。
むしろ聞こえてくるのはその正反対の評価だ。
『いつも明るく、ニコニコ笑って、何でも美味しそうに食べる、誰にでも優しい女の子』
生前の死者が美化されるのは珍しいことではないが、ここまで口を揃えられると信憑性も増してくる。
ならば尚更、不可解の一言だった。
食料の備蓄は残り僅かだが、金は持っている。蛇口を捻れば水も出る。食料品を扱う店も近い。
餓死しようにも出来ない環境。安直にそう思った。それを否定する考えも浮かばなかった。しかし現実は違った。
現にこの部屋の住人、中原福子は死後かなりの時間が経った状態で発見され、そのまま警察のご厄介になることになったのだから。
それでも有り得る限りの可能性を検討すべく部下に指示を出しつつ、男は独りごちた。

「……自分の意思、か。だが何故……」

(本当に、なんでなんだろう)

そんな部屋の隅で座り込んでいた中原福子は、そうぼんやりと考えていた。
どうやら自分は死んだらしい。それも餓死で。確かに彼女の記憶にも、生々しい飢えと渇きの苦痛が刻み込まれている。
だが問題は、その理由だ。なぜ命を落とすまで食事を摂らなかったのか。それが今の彼女には検討もつかないのだ。
無論、記憶をたどれば、ショックだった出来事の2、3は見つかる。しかしそのどれも、命を断つ決意をさせるほどでもない。
親元を初めて離れた女子学生がたいてい経験するような、そんなありふれた苦痛に過ぎないのだ。
例えば、そうだ、あの日、電話で……

(ううん)

気分が悪くなり、首を振って思考を打ち切ろうとする。
それでもなお纏わり付くような不快な記憶から目を背けるべく、彼女は別のことを考え始めた。
すると一つの疑問が浮かび上がった。

(いや、そもそも……これって現実なんかな?)

死んだ人間が生きているはずもない。なら夢だろう。
食べなさすぎて意識が朦朧とし、妙に長く、はっきりした夢を見ているのでは?
そうかもしれない。福子は頬をつまみ、ぎゅっと引っ張った。

「いたたたた!」

思わず声が出た。彼女は慌てて指を放し、口を抑えた。
恐る恐る部屋の中を見渡すが、警察の面々は無反応だった。
そういえば初めから見えていなかったと、そう思い出して福子は赤くなった。

(……うーん? 目、覚めへんね。ならやっぱ現実なんかな)

ぼんやりと彼女は思った。相当マズいことが起きているかもしれないのに、頭の回転は鈍く、思考のペースも極めて遅かった。
なにせ今、彼女が置かれた状況は、恐ろしいほどに現実味がないのだ。視覚ははっきりしている。聴覚も。一方でそれ以外は壊滅している。
部屋に染み付いたらしき悪臭も、彼女は何も感じない。誰かに触れることも出来ない。味覚はよく分からないが、何も感じない。
よく出来た立体映像を、所詮は映像としか感じられないように、今の彼女には全く危機感が欠けていた。

「……ん?」

そんなふうに思いを巡らせていると、不意に部屋の電気が消える。
気づけば警察の人たちは撤収の準備を終え、死者への最低限の礼儀とばかりに玄関で一礼していた。

「あ、ど、どうも」

反射的に礼を返す。当然ながら、彼らがそれに気づくことはない。
静かにドアを閉じると、カーテンの閉じた部屋の中は真っ暗になった。
福子はしばらくぼうっとしていたが、やがて歩きだした。

(暗いなあ)

パジャマ姿のまま、かつてそうしていたように電気スイッチの前へ。押す。すり抜ける。
もう一度。またすり抜ける。

「んん」

彼女はしばらく、そうして試し続けた。しかし、聞き馴染みのある『カチリ』という音が鳴ることは一度もなかった。
やがて彼女はため息をつき、ベッドに体を投げ出そうとした。しかしその体はシーツの少し上でぷかりと浮いて止まった。
ほとんど黒一色にしか見えなくなった天井を眺め、彼女は静かに考えた。

だいぶ時間が経ったにも関わらず、目は覚めない。ならこれは現実か。しかし相変わらず現実味はない。
これから何をする? 何にも触れられないのは退屈だ。何かすることはないだろうか。
この期に及んでも危機感を欠いた雑多な事柄が、頭に浮かんでは消えていく。
とことん能天気なのか、あるいは自分に起きた出来事から、無意識に目を逸らそうとしているのか。それすらも今の彼女には思い当たらない。
その時、ふと福子は思いついた。

「……あ、そうだ」

寝返りを打ち、無造作に壁に手を伸ばす。思ったとおり、指先は壁に沈み込んだ。

「じゃあ、体も……」

福子はゴロゴロと転がり、隣の部屋へ入ろうとした。気は少し引けるが、試してみないことには変わらない。
そう思ったその時、部屋の電気が点いた。

「え?」

誰かが来た? そう思い、彼女は玄関先側に振り返った。そして目を見開いた。
そこにいたのは、実家にいるはずの父と母。着の身着のまま飛び出してきたような日常感のある服装で、まだ僅かに残留する臭いに顔をしかめている。しかしそれ以上に、憔悴した様子が見て取れた。
福子は目を見開いた。それは記憶の中の二人には、あまりに似つかわしくない表情だったからだ。
母が先に部屋に入り、父を呼んだ。

「さ、お父さんも」

「……ああ」
父はその声に答えた。気の抜けた、弱々しい声だった。父は力なく一歩を踏み出した。そして幽鬼のように首を振り、福子の方を見た。
福子は身を震わせた。

「あ、あの……」

おずおずと口に出す。この状況を、どう説明したものかと思案しながら。
しかしその続きを伝える前に、父はよろけた。

「あ! おとう……」

「お父さん!」

倒れそうになった父を、母が支えた。福子の伸ばした手は行き場を失って宙を泳いだ。

「……すまない。つい」

「……ええ」

両親は言葉を交わす。ベッドの上の福子に、視線をくれることもなく。
見えてない。ようやく福子はそれを理解した。そして差し出した手を引っ込め、胸の前に戻した。
目が離せなかった。離してはならないと思った。長い長い沈黙の果てに、やがて父は口を開いた。

「あそこで、……」

しかしその言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
まるで何かに抗うように口を閉ざした。

「……」

母が目を伏せる。福子は掛ける言葉を探した。見当たらない。
いや、そもそも言葉は通じない。探す必要はないのだ。しかしそれでも福子は、必死に考えを巡らせていた。
まるで自分に言い聞かせるように。

「……お前があの日、電話を掛けて来た時」

ぽつり、と父は呟いた。

「ここで甘やかしてはいけない、そう思った。お前は独り立ちし、自立する最初の一歩に立っているのだと。だから、邪魔を……すべきでないと」

父の声は震えていた。震えながらも、言葉を絞り出していた。目に見えない何かに懺悔するかのように、苦悶の表情を浮かべて。

「だが、違った。お前はあの時、私が想像もつかないほど、追い詰められていたんだな」

「お父さん」

福子は口を挟もうとした。その声に、父の呟きが重なった。

「昔からそうだった。お前は私が気づきもしないようなことまで気づき、悩まずに良いことまで悩んだ。そんな、優しい子だった。なのに」

「違うよ、お父さん」

互いの言葉は重なり合う。けれどもそれは、福子の主観に過ぎない。

「福ちゃん、福ちゃんが泣いてるのにお母さんが気づいてあげられてたら……」

「お母さんまで……」

罪悪感に駆られる父と母に、否定の言葉は届いていない。
その現実を拒絶するかのように、福子は声を荒げていた。

「ウチが、もっとしっかりしとったら! だから! 泣かんとってよ! 全部ウチが、ウチが……」

「すまない、福子……! 私が、全て私が……!」

「ごめんね、駄目なお母さんのせいで、福ちゃん、ごめんね……!」

「違う! ……違うんよ、違うから……!」

鼻をすする音。涙がこぼれ落ちる音。そして子供のようにしゃくり上げる、両親の泣き声。
それだけが、福子の耳に届き続けた。自分も何かを言っていた。だがどれだけ強い声を上げても、彼女を苛むその音をかき消すことは出来なかった。
……肩を震わせ謝りながら、ひたすら頭を下げ続ける両親に。
その背中に、自分は何の言葉もかけられないと、そう思い知った時。
その時、ようやく彼女は悟った。自分が何を失い、何を傷つけることになったのかを。
そしてそれらを止める手立ては、もう何一つ存在しないのだという冷淡な事実を。

両親がいなくなり、部屋の灯りが消えても、福子には何も思い浮かばなかった。
ただ幽霊のようにフラフラと歩き回り、そして自然と力が抜け、その場にぺたんと腰を下ろした。
呆ける心が、幻を生んだ。先の両親の姿を、言葉を。やがてそれは思い出に変わる。もう戻れない過去に。
そこで空想していた、永遠に進むことのない未来に。

涙が溢れ出た。泣いてはいけない。そう福子は思った。今一番辛いのは、自分ではないのだから。
それでも涙は溢れ出た。真っ暗で、静かな、ひとりきりの部屋で、福子はただ泣き続けた。

……

それから7年が経った。福子の居場所は変わらないが、その部屋はもう彼女のものではなくなった。
使っていた家具は処分され、新たな住人が何度か入居するようになっていた。
しかし福子には、彼らは見えなかった。正確には、視界に入りはするものの、それを意味のあるものとして受け取らなかった。
彼女の思考を占めていたのは、とうに失われた過去のこと。
心が反芻するのは、自らが犯した罪。過去への後悔と、現在の無力感。そして未来への絶望。
それが今の彼女の全てだった。

その日、福子は数日ぶりに膝に押し付けていた顔を上げた。
そして遠くの景色を見るように、部屋の中を見渡した。それはまた変わっていた。誰かが入居したのだろう。
前の人は、出ていったのだろうか。よく覚えていない。いや、そもそも前の人などいたのだろうか?
あの日からどれだけ経ったのか、確証はなかった。10年も経ったような気もするし、数ヶ月しか経っていないような気もする。
朝に目覚めた時、前の夜に考えていたことがおぼろげになるように、彼女の記憶はずっと霞がかっていた。

部屋をぼんやりと見渡す。暗く、カーテン越しの光もないから、おそらく今は夜。
内装の雰囲気からして、持ち主は女性だろうか。本棚には自己啓発系の書籍と、見たこともないタイトルの少女漫画。
暗闇に慣れきったからか、そこまで見える。だからといって何の意味もないが。
ため息をつき、視線を移す。ベッドの上で誰かが寝ている。この人が新たな住人だろう。それからキッチンに目を向ける。
散らかった調理台の上に、置きっぱなしの中華鍋。生活の匂いを感じ取り、不意に福子は呟いた。

「……おなかへった」

瞬きとともに、言葉の意味を理解する。それから福子は、己の腹を思い切り殴りつけた。

「げほ、げほっ……」

強い衝撃に、思わず咳き込んだ。手加減などする気はなかった。何かを欲しいと思うことすら、今の自分には僭越なのだから。
胃酸がこみ上げ、喉が焼けるように熱い。でもそれは、自分への罰だ。最大の親不孝で命を落とした、自分への罰。
食べることが好きだった。いつもそれが一番の楽しみだった。だから今の自分は、絶対に何かを食べてはならない。
皮肉にもそれは、彼女が落命する直前にも囚われていた思考だった。

「はぁ……はぁ……」

荒い呼吸を繰り返し、整える。呼吸のリズムが戻ると、正常な状態に戻る。顔を伏せ、部屋の隅にうずくまり、何も感じなくなる。
それで『今日』は終わりだ。このような反射的な『起床』は度々あった。だがそのいずれも、こうした衝動的な行動によって幕を閉じていた。
だがこの日は、様子が違った。呼吸のリズムが戻り、顔を伏せ、そして……人の気配に、顔を上げた。

「……お父さん?」

「違いますよぉ」

福子の前に立つ女性は、間延びした喋り方で答えた。声を聞くまでもなく、姿を一目見るだけで父とは別人だとわかった。
父よりかなり高い身長。闇に溶け込むような黒いローブを着ており、この暗さではまるで顔だけが浮かんでいるようにも見えた。よく見ると背中には大きな黒い羽も生えている。そして背負った白い鎌。

「あなたは、誰?」

「死神ですよぉ」

自称死神は笑った。福子は目を瞬かせた。戸惑う彼女に気に留めもせず、死神は告げた。

「あなた、迷える魂でしょう? 導いてあげますよぉ」

「導く……?」

死神は頷き、鎌の刃を愛おしそうに弄ぶ。

「平たく言うとですねぇ。この鎌でスパッとやって、あの世行きってことです。……ああ、あの世ってのはあなたみたいに死んだ人が本来行く場所のことですよぉ」

「……」

福子は何も答えない。その沈黙を同意と捉えたのか、あっけらかんと死神は言った。

「ま、そういうわけで早速殺っちゃいますねぇ。一度ぶっ殺される覚悟はいいですかー?」

闇の中に、白く輝く刃。それを見た福子は震えていた。恐怖に? いや、喜びにだ。

(これで終われるん?)

苦悩だけの日々。それが終わる。そう思った時、嬉しくないはずがなかった。
しかしそれは、すぐさま黒い感情に塗り潰される。

「……待って、駄目です」

「えっ?」

死神は鎌を振りかぶったまま、不思議そうに聞いた。

「駄目って?」

「だってまだなんです」

「まだって、何が?」

「まだ苦しんでないんです。お父さんとお母さんに、それに友達に……みんなに味わわせた苦しみの、万分の一も苦しめてないんです、ウチは」

「……? だから、その苦しみをですねぇ……」

「味わわなあかんのです、ウチは」

震えた声で、福子はきっぱりと言った。死神は顎に手を当てて何やら考え込んだ。
静まり返った深夜の部屋に、家主の寝息だけが響いていた。福子は体を抱え込むように座り、その『間』に耐えていた。やがて長い長い沈黙のあと、死神は口を開く。

「……ふむ。あなたは考え違いをされてますねぇ」

「考え違い?」

「ええ。ちなみにどこだと思います?」

クイズでも出すようにウインクすると、死神は鎌を体の後ろにやり、手を放した。
鎌は床に落ちることなく浮かび、その柄に彼女は腰掛け、福子の言葉を待った。福子は戸惑いながらも、その問いに答えた。

「……友達とか、もうそんな気にして……」

「いやいや、違いますよぉ」

ぱたぱたと手を振り、遮る。

「まず、そもそもなんですけど。あなたが苦しんでも、その人たち別にいいことないですよねぇ」

「それは……」

「月並みですけどね。あなたが好きだから、あなたが死んで苦しいんでしょ? その人たち」

顎に手を当て、死神は身を乗り出した。

「それがあなたが苦しみ続けて嬉しいわけないじゃないですかぁ」

「……そんなんわかってます」

「いーや、わかってません」

「どうしてそんなこと」

「だってそうじゃないと、あなた苦しむのが楽しい変態さんってことになっちゃいますもん。そうじゃないでしょ?」

くすくすと死神は笑った。福子は答えなかった。ただその言葉を直球に受け止め、真剣に考え込んだ。
死神は目を細め、そんな彼女を見下ろした。やがて福子は答えた。

「……ううん、でも、これはウチへの罰ですから。苦しいとかそういうんじゃなくて、受け入れんと……」

「ウチへの罰って、誰がそれを下したんですか?」

「それは……」

「誰でもないですよねぇ。友達でも親でも神様でもない。つまり、罰じゃないんですよ」

「でも」

福子はなおも主張しようとした。死神はそれを遮るように、ずいと顔を近づけた。

「あなたの苦しみは、罰じゃありません。誰かを幸せにするものでも、溜飲を下げるものでもありません。そして……あなた自身が満足できるものでもないんです。だからもう、やめませんか?」

「でも!」

福子は目を見開いた。彼女は叫ぶように言った。

「やめちゃ駄目なんです……! 楽しんじゃ駄目なんです! 喜んでも駄目なんです! ウチはここで、この先もずっと、永遠に苦しみ続けなきゃ駄目なんです! だって、だって……」

両親や友人たちの笑顔。楽しかった思い出が、今の彼女を縛っていた。その大切さを知るからこそ、それを壊してしまった自分自身を、そんな思い出を与えてくれた人々を傷つけてしまった事実を、何よりも許せなかった。でも、それ以上に。

「……だって、それくらいしか、もう、ウチがしてあげられることは……」

大切な人々に、笑っていてほしかった。感情の奔流が、涙となって溢れ出す。
混沌した心情は、年月を経て捻じれ、不可解な形に成長していた。彼女自身ですら理解できないほどに。

「……強情ですねぇ、意外と」

呆れたように死神は言った。

「……ごめん、なさい」

「謝らなくても……ううん、そうですねぇ。それじゃ、こうしましょう」

死神は背中に手を回した。それから何かを放った。ぽてんと足元に落ちたそれを、福子は滲んだ眼で見た。

「……あんパン?」

「ええ。どこから取り出したかは秘密です。重要なのは、あなたでも食べられるってことですねぇ」

「……!」

福子はたじろいだ。

(あ、やっぱり)

死神はくすくすと笑うと、鎌から降り、身を返す。

「じゃ、私はこれで」

「え、じゃあ……」

「それは差し上げます。じゃ、また」

引き止めるように、福子は手を伸ばした。その指先にいた死神は、瞬時に消失した。

「え……?」

福子は目を瞬かせた。死神は消えた。あとに残されたのは、困惑する自分と、小さなあんパンの袋だけだった。

「……!」

無意識に袋に伸ばそうとした手を、反対の手で抑える。それからいつもの体勢に戻り、それを見ないように、顔を伏せた。

(……)

思考がぐるぐると巡る。あの『死神』は何者だったのだろう。彼女の言っていたことは。両親や友達は今、何をしているのだろう。あれから何年が経ったのか。食事。何も食べないまま、一体どれだけが。

「……!」

福子は歯を食いしばり、意識を逸らそうとした。食べ物などにうつつを抜かそうとした自分を恥じながら。だが彼女がどれだけ拒もうとも、一度芽生えた飢えへの意識は消えることはなかった。嗅覚は徐々にその機能を取り戻し、あんパンの匂いだけでなく、意識もしていなかった部屋の匂いまでも嗅ぎ取り始めた。

「……!!」

バチン、と勢いよく頬を張る。それでも意識は逸れない。

(もう、そうして苦しむのを止めませんか?)

甘い許しの言葉が、頭の中を駆け巡る。気を抜けば手を伸ばしてしまいそうな自分を心のなかで罵りながら、福子は言葉にできない苦しみに耐えていた。それが無為な意地に過ぎないと、心の底で感じながら。

……

やがてまた、夜が訪れる。3日が経った。今の福子にはそれが分かった。3度外が明るくなり、また暗くなったと、それだけしか分からなくとも。

ぐぎゅるるる……と腹の虫が騒ぐ。死んだ体にも、腹の虫は住んでいるのだろうか。他愛のない空想に耽ろうにも、食べ物の香気がそれを許さなかった。原始的な飢えの苦しみが、彼女を現実の世界に引き戻し続けていた。

「……腐ったり、せんのかな」

ぽつりと呟く。無意識に手を伸ばし、袋を掴む。その感触に、福子は目を見開いた。それから恐る恐る、袋の中を覗いた。

(確認するだけ、確認するだけやから……)

誰にでもない言い訳を繰り返し、あんパンを眺める。きれいな焼色の付いた表面に、けしの実の乗った、ありふれた形状。パンの匂いに混じり、甘いあんこの匂い。福子はつばを飲んだ。理性が何かを叫ぼうとした。本能がそれを抑えた。

「ひとくち、だけ……」

そしてそれを、口に運ぶと、一口、齧った。もぐもぐと、咀嚼した。そしてそのまま、二口目を齧った。甘い香りが口中に満ちた。しっとりとした生地と、なめらかでありながら粒の質感を残した餡。何年ぶりかの質感を噛みしめるたび、涙が溢れた。

「う、うう……」

ぽろぽろと涙が零れ落ちる。衝動的に腕を振り上げ、あんパンを捨ててしまおうとする自分が脳裏に浮かぶ。『美味しい』という感覚的な喜びと、それを味わってはならないという感情的な苛立ちが、彼女の心を満たしていた。それでも一口、また一口と口に運ぶたび、前者が後者を上回っていった。

「……ごちそう、さま」

静かに呟くと同時に、涙が頬を伝った。自分が情けなかった。そんな情けない自分が許せなかった。今までずっと許せずにいた。けれども、気が狂いそうな苛立ちの中になお、彼女は確かに幸福を感じていた。

(福子ってさ、本当美味しそうに食べるよね)

(ほら、この唐揚げあげる。あたしダイエットしてるからさ)

友達の声。楽しかった高校の頃の記憶が脳裏に浮かぶ。

(福ちゃんが美味しそうに食べてくれるから、お母さんいつも頑張れるのよ)

(何でも好きなものを食べなさい。受験を頑張ったご褒美だ)

そして両親の声が。幸せな日常の光景。そこにはもう、二度と戻れない。それでもそれは、悲しみの記憶で上書きしてしまっていたはずのそれは、今もなお、眩しく輝いていた。

(それがあなたが苦しみ続けて、嬉しいわけないじゃないですかぁ)

「………………」

数日前の言葉が蘇る。甘い香りと味の余韻が、口の中にまだ残っている。誰かの寝息が聞こえる。カーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。呆けたように倒れ込み、福子は仰向けになった。僅かに見える月は、いつか見た頃と変わらない輝きを放っていた。

「……ふふ」

口角が上がった。目を閉ざすと、溜まっていた涙が目の端から溢れ、横髪を濡らした。少しだけ冷たさを感じながら、福子は考えていた。何もできなかった自分。無為に過ごし続けた自分。罪を犯し、大きな悲しみを遺してしまった自分。食欲に負け、自責することすらできなかった自分。

「……ウチ、情けないなぁ」

細く目を開け、呟く。拳を振り上げる衝動は不思議と湧かなかった。やがて眠気が、彼女を包み込んだ。

……

「……名前の意味? それが宿題なの?」

夕飯の煮物をかき混ぜながら、顔だけを振り返らせて母は答えた。
食卓にプリントを広げ、幼き日の福子は言った。

「うん、聞いてきなさいって先生が」

「福ちゃんの福はね、幸福の福よ」

「こうふく?」

難しい言葉に、福子はキョトンとした。母は火を止め、福子の隣に座って言った。

「幸せってことよ。あなたが幸せに過ごせますように、って願いを込めたの」

「へぇー……こうふく、こうふく……」

かりかりと鉛筆を動かし、福子はそれを書き留める。
字が上手くなく、『二ラふく』のような形になったそれを見て、母は苦笑いした。

「……福ちゃん、ひらがなはもうちょっと練習しないとね」
「ええー」

がっくりと項垂れる。そんな彼女らのもとに、仕事から帰ったばかりの父がゆっくりと歩み寄ってきた。

「二……? 何を書いているんだ?」

「あ、お父さん。あのね、今日宿題でね、お母さんがね、こうふくなんだって」

「……?」

要領を得ない言葉に怪訝そうにする父に、母は笑って言った。

「ふふ、名前の意味だって」

「ああ」

合点が行くと、父は大きな手で、くしゃくしゃと福子の頭を撫でた。
こそばゆい感覚に福子は笑った。父は穏やかな声で言った。

「だから……もしも福子が辛いとき、苦しいとき。いつでもお父さんとお母さんに言いなさい。福子が辛いときは、お父さんたちも苦しいんだから……」

……

雀の声が聞こえた。朝の光が、柔らかく顔を照らしていた。福子はゆっくりと上体を起こし、ぱちぱちと目を瞬かせた。朝が来て、目が覚めた。ただそれだけのことが、随分と懐かしく思えた。

「ん、うう……」

寝起きは頭が回らないのが彼女の常だ。おぼつかない視界で部屋の中を見渡す。昔自分の部屋だった部屋で、『誰か』が慌ただしく朝の支度をしている。福子はそれを見つめた。

(……そういえば、この人、何しとる人なんかな)

そんな当たり前の興味が、その日初めて湧き上がった。

……

数日後の昼。家主の出かけた部屋に、再びの来訪者があった。
彼女のあいかわらずの真っ黒な衣装は、カーテン越しに日が差しこむ部屋の中では、どこか浮いていて、滑稽にすら見えた。

「……そうですかぁ。お元気になられたようで何よりですねぇ」

「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」

ぺこりと福子は頭を下げた。心からの言葉に、死神は嬉しそうに笑った。
そして白い刃に視線を落とし、言った。

「それじゃ、未練もないですよねぇ。ではでは……」

「あ、それはちょっと待ってください」

「え?」

言葉を遮られ、死神は意外そうに福子を見返した。

「もしかして、まだ?」

「いえ、そういうんやないです」

福子は首を振った。その意図をつかめず、死神は怪訝そうに尋ねた。

「じゃあ、なんのために?」

「幸せに暮すためです」

福子は真っ直ぐに死神の目を見て言った。

「……」

「ウチにはもう、みんなに何もしてあげられることはないけど。それでも……ううん。ただ、ウチが未練があるから。もう少しウチが楽しく生きてみたいなって、そう思ったから。だからまだ、それは待ってください」

福子はきっぱりと言い切った。それからしばらくの間、死神は顎に手を当て、目を閉じて沈黙していた。やがて気まずい雰囲気に耐えかねたのか、福子が先に口を開いた。

「……あの、何度も来てもらってごめんなさい。でも、ウチはその。生きて……あ、いや、死んでるんですけど、それがええっと……」

「……うん」

死神は目を開き、笑った。思いがけない変化に少したじろいだ福子に、彼女は笑顔で言った。

「いいですよぉ、別にあたしノルマとかで動いてるわけじゃないですから」

「え、あ、そ、そうなんですか? ウチてっきり……」

「あー、そういうイメージありますよねぇ。ふふ。でもほら、あたしは迷える魂専門なんで。迷ってないなら構わないんですよぉ」

「はぁ」

目をぱちくりさせた福子に、死神は言った。

「死後の生、そういうのもアリだと思いますよぉ」

どこか嬉しそうに、死神は笑った。その笑みに釣られて福子も笑った。
この試みが、うまくいくかはわからない。けれどもチャンスがあるのなら、できる限り試してみよう。
幸福を求めて、自分の死後の生を。

……それから大体8年後。福子はとびきり変な人と出会うことになる。
彼女のことを視認し、存在を当たり前のように受け止め、会話を楽しんでくれる相手と。
けれどもそれは、また別のお話……

→ふくふくアフターライフ(仮)に続く

◆拍手ボタン(押すとやる気が湧きます/コメントも送れます)