基本的に物置き


●表現媒体としての伺かとその特徴

◆はじめに

当記事は伺的 Advent Calendar 2022の各記事を読んでいると楽しくなり、カレンダー外でも投げ込んでいいよという懐深い別タグの存在を知って投げ込んでみたものです。

初めましての方は初めまして。古閑未善と申します。
普段は2つのゴーストを公開したり、配布ページ拡張スクリプト『USHS』を公開しています。
どれも自信があるので良かったら触れてみてくださいね。宣伝終わり。

さて、それでは本題について考えてみたいと思います。

◆表現媒体って何よ?

頭の中に浮かんだものを表現する際に媒体となるもののことです。
……それはもう堅苦しいですね。なので言い換えると、小説、漫画、ゲーム、音楽。こういった創作ジャンルのことです。
あらゆる表現にはそれに合ったジャンルがあります。美しいメロディーを表現したいなら音楽を奏でますし、斬新なゲーム体験を表現するならゲームを作りますよね。
表現したいものに合った媒体を選ぶことで、上手に考えを反映させられるわけです。

では、伺かは何に合っているのでしょうか?
その答えは『キャラクターそのもの』だと私は考えています。
伺かはキャラクターそのものを表現するのに向いた唯一無二の個性を持った媒体なのです。
その個性は大きく2つに分かれています。

◆伺かの『直接性』

伺かの主体はゴーストであり、そのキャラクターそのものです。
無論、彼らの中には明確なストーリーやゲーム性を持つものもいます。
しかしそれはあくまで副次的なもので、ゴーストの主体ではありません。
あくまでユーザがその世界に入り込み、直接ゴーストと向き合うための手段なのです。

なぜそう断言するのかというと、答えは至ってシンプルです。
伺かはゴーストとともに過ごせるソフトウェアです。その期間は特に定められておらず、ユーザが望む限り立たせ続けることができます。
一方、ストーリーは読み終えた時点で終わってしまいますが、基本的にゴーストはそこに立ち続けます。
物語が終わり、読者が本を閉じても登場人物たちの世界が続くように、ユーザはストーリーの『その後』の世界に居続けることができるのです。

ストーリーがなくともゴーストは存在しますが、ゴーストがなければそれは伺かではありません。
なので、ストーリーは副次的なものだと私は考えるわけです。

……少し話が逸れましたね。さて、伺かの主体とはという話に戻りましょう。
伺かの主体はゴースト。ですがそれだけでは不完全です。ゴーストが伺かとなるにはもう一人の登場人物を必要とします。
それがユーザ自身です。そしてそのことこそが、伺かの『直接性』を構成する大きな要素なのです。

ユーザはどこにいるでしょうか。当然現実の世界です。
一方で伺かを起動しているとき、ユーザはゴーストの前にも存在しています。
ゴーストたちはユーザがその場にいることを前提に話し、その手で触られたかことを前提に反応します。

通常、ゲームなどにおいてユーザが操作するのは『作品世界に存在するキャラクター』です。
ロールプレイング(役割演技)ゲーム、なんて言葉がある通り、ユーザは間接的にその世界の住人となるわけです。
しかし伺かにおける登場人物としてのユーザは、現実世界のユーザその人です。
ユーザはキャラクターを介さず、直接ゴーストと対面し、コミュニケートすることができるのです。

そのコミュニケーションは、基本的にはランダムトークとコミュニケーション(なで反応)によってできています。
これを要約すると、定期的にユーザの意識外から話が始まる(ランダムトーク)こと、ユーザの意思によってゴーストが反応を返す(コミュニケート)ことです。
人間は、自分の意識外から起きた物事によって他者の存在を感じ、自分の意思に対し反応があることで自身の存在を確認します。
これらによってユーザはそのゴーストが『デスクトップにいる』感覚を味わうことができるのです。

しかし、これだけでは唯一無二とまでいうには不十分です。
意識外からイベントが起こる、ユーザの入力に反応を返すというだけでは、ゲームとさして違いがありません。
では伺かを伺かたらしめるものとは、なんでしょうか。

それは目的意識の欠如です。……なんか罵倒みたいですが、これは最大の褒め言葉です。
そこにこそ伺かのもう一つの大きな個性である『副次性』があるのですから。

◆伺かの『副次性』

ゲームには目的があります。ストーリーを見る、アクションを楽しむ、素材を集める……
目的がないゲームはわざわざ遊びたくなりませんし、満足感を与えることもできません。
しかし目的があればそれに沿って行動する必要がありますし、そうしないのは時間の無駄に過ぎません。
ですが伺かには目的がありません。ゴーストはただ『そこにいる』だけで、ユーザもまた『そこにいる』ことだけを求めているのですから。
そもそも目的を策定する必要がないのです。

それがなぜかというと、伺かは本質的に『副次品』だからです。
ユーザは伺かと平行して作業を行え、気が向けば構い、コミュニケートを楽しむことができます。
あくまで気が向けば、です。ユーザが喋り掛けなくてもゴーストは呑気に漫才していますし、一定時間放置すると怒る、なんてことはありません。
目的は一種の義務でもあります。ゆえに目的のない伺かを、ユーザは安心して意識の外に追い出すことができるのです。

しかしゴーストは、デスクトップの片隅に確かに存在しています。
ユーザがゴーストと触れ合うとき、そこに『会いに行く』プロセスは挟まりません。なぜならそのゴーストは、ずっとそこにいたのですから。
意識の外にいながら、しっかりと存在し続けている。話しかければ反応が返ってくる。そのあり方は現実の人間とも似通います。
ちょっと無理矢理感はありますが、それもゴーストが『そこにいる』感覚を生む一つの理由なのだとも思います。

副次品であるということは、表現媒体としても面白い効果を生んでいます。
例えば進行度です。ゴーストと過ごしていると仲良くなり、踏み入った話や事情を聞ける……というおなじみのものですね。
必要な時間は様々ですが、おおむね数時間、込み入ったものだと24時間近く必要となるものもあります。
仲良くなるためにともに過ごすのなら、そのくらい時間が掛かった方がむしろ自然ですよね。

しかし他の表現媒体で考えると、これはなかなかに難しいものとなってきます。
音楽は言わずもがな。小説や漫画も24時間分の量を書くとなると普通に死ねます。
ゲームはどうでしょうか。平均的なRPGが15~20時間で終わるとして、普通に足りません。
このように、仲良くなるためのリアルな時間経過を実装するにはめちゃくちゃな労力が必要です。

では伺かではどうでしょう。……考えるまでもありません。なぜなら伺かは副次品なのですから。
無論、飽きない程度のランダムトークは必要でしょう。
しかしともに過ごす時間の大半、ユーザは他のことをして勝手に過ごします。作り手がわざわざ考える必要はないのです。
このように、圧倒的なコスパをもって『ともに過ごす』ことを表現できるのが伺かのもう一つの長所です。

ユーザが現実世界の人間でありながら、ゴーストに直接干渉できるという『直接性』。
現実世界のユーザの作業を阻害せず、しかしゴーストと同じ世界の住人でい続けられるという『副次性』。
これらが伺かという表現媒体の大きな特徴であり、唯一無二の長所なのです。

◆あとがき

現代の多くの娯楽には、束縛という性質がつきものです。
ソーシャルゲームは当然ながら、コンシューマにおいてもアップデートが当たり前。
過去の名作はリブートされ、今の名作もスピンオフやらメディアミックスが後を絶ちません。
娯楽の氾濫する時代には、人気の出たコンテンツはとにかくユーザを引き止め、関心を維持し続けなければ生き残れないのです。

一方で伺かには、いい意味の『無関心さ』が維持され続けています。
これには商業性の有無という大きな違いもありますが、伺かというコンテンツが保っている一種の空気感もあると思っています。
来る者は拒まず、去る者は追わず。ユーザを専有しようとする娯楽にあふれたこの時代において、ゴーストは昔ながらの気楽な空気とでも言うべきものを持つ、貴重な存在だと思います。
そしてそれが発展、維持され続け、このようにデベロッパーの一人の考えを多くの方に読んでもらえる機会をも用意してもらえたことに深く感謝します。

……とまあ長ったらしく小難しく書いてしまったので、最後に要点を簡潔にまとめ、この記事を完結させたいと思います。

『伺かってすげー!』

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